近藤典行

「ウソ」というテーマを聞いて最初に頭に浮かんだのが「いっつみぃのウソつき四択」だったので仕方ない、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ』(以下『ショーバイショーバイ』)について書いてみたいと思う。とはいえ、ある経緯から数ヶ月前に今の20歳未満は「トランプマン」さえ知らないという驚愕の事実を突きつけられたばかりなので、この『なるほどザ・ワールド』と同時期の、厳密には1988年10月12日から1996年9月25日まで日本テレビ系列で放送されていたイチテレビ番組について書くのは、とりあえず公の場として機能していると言わざるをえないウェブ上のこのコラムに書く内容としてはいかがなものかという疑念を持ちえなくもないし、わかる人にだけわかればいい、という態度はやはり自らに禁じなくてはなるまい。しかし一方で、「わかる人にしかわからない」に対置される「誰にでもわかる」という幻想に過ぎぬこうした強迫観念が、なによりテレビをつまらなくしている、という手垢にまみれたタームだってここで書こうとしていることの一部であるのも素直に認めよう。

この「わかりやすさ」を作り手たち自身が過剰に求めた結果、近年テレビの世界はクイズ番組がプログラムの大半を占めることになるだろう。○か×かしか存在しない、結果がすべてのクイズ番組より「わかりやすい」ものなど、またとないのである。あまり知られていないようだが、日本テレビクイズプロジェクト第一弾番組、として制作された『ショーバイショーバイ』はある意味、昨今のクイズ番組の流行を生んだと見ることもできるかもしれないが、少なくとも『ショーバイショーバイ』は、現在のそれらとは一線を画した、「わかりやすさ」とは無縁の位相にあったクイズ番組だったと断言できる。それはなぜか?

もちろん前述した「ウソつき四択」を含む問題自体の凝り様やスロットマシーンで得点(ショーバイマネー、すべて萬単位)が変更するシステム、その得点の中には「よこどり40萬」といった逆転を容易にするオプションなど、スリル感の導入といった細かい工夫が施されている点もたしかに無視できないが、それはなにより出演者、特に解答者の存在そのものの不可解さによって齎されていたといえよう。私はここで、高田純次の狂気スレスレの爆発力を、野沢直子の鋭敏な発想力を、故・山城新伍のチャーミングないかがわしさを、故・ジャイアント馬場の人智を越えたおおらかさを、しいては人間の多様性とそこに至るまでの生き様の美学をみた。おおげさだろうか。

しかし、現在では番組の構造だけでは飽き足らず、解答者にまで「わかりやすさ」を求めてしまった。解答者のキャラクターなどいらない。おバカか雑学王か、そのどちらかでいい。いや、どちらかしかいらない。つまり、元木と武田は交換可能なのだ。弁護士と医師の人生の差異がないなんてありえるのだろうか。どうやらそこは地デジ対応でも映らないらしい。

『ショーバイショーバイ』で目撃した中で私が最も好きなのは、クイズに正解したジャイアント馬場がスロットマシーンを壊した場面で、当時小学生だった私は馬場の、本物のレスラーの、腕力の凄さにテレビの前で興奮したと同時に、その時の馬場の照れた笑顔に完全に魅了された。それは本当に愛くるしかった。後に、山城新伍はその時のことを回想して、わざと馬場のスロットのネジを外しておいたことをおもしろおかしく告白していた。もしその後、馬場がこの話を耳にしたとしても、僕らに見せつづけたように優しく笑ったに違いない。

ウソをつく、やらせを仕掛ける、この<フィクション=虚構>の復権を私は心から待ち望んでいる。それはテレビの世界だけに限った話ではない。人を笑わせるウソは大いに吐くべきなのだ。腰パンしただけで、一言不用意な発言をしただけで、寄って集って総バッシングをかける神経症的な今のイジメ大国ニッポンには、やはり無理な話だろうか。

 わたしが服属の状態を進んで引き受けるのは、それが自分の懇願をはっきり(・・・・)と(・)示す(・・)ため(・・)の方法であるからだ。恋愛の領域にあっては、無益なおこないは「弱さ」ではない。「おろかしさ」でもない。それは強力な記号なのだ。無益であればあるほど、それが意味するところは多く、力として発顕するところも多いのである。(註①)


 おそらく大多数の人は嫌悪する行為ではあろうが、私はわりかし女の子のカバンを持ってあげることは好きな方だ。別にそれが小さかろうが、自分の服装との違和感を醸し出そうが平気である。

もし、ペネロペ(註②)がその「タバサ」とやらのおしゃれバックを差し出そうものならサラりと受け取り、春の陽気が香りはじめたトウキョーシティーを並んで颯爽と歩くだろう。そして先日の件(註③)で、少し落ち込み気味のペネロペに、「まぁまたそのうちチャンスはやってくるよ」と優しい言葉の一つか二つかは掛けたりもするだろう。ペネロペの表情が幾分かやわらかくなったところで、不意に私の脳裏に嫌な画面が横切る。突如として映画の記憶装置が作動してしまったわけだが、それは現在ペネロペが交際しているという彼氏(註④)の存在のことで、あんなのに追っかけられたらと思うと、たとえそれが映画で演じた役柄(註⑤)だとわかってはいても、やはり気味が悪い。見るからに圧迫感のある濃さが伝わってくるスペイン人二人に挟まれての三角関係なんて、ましてや情熱的なラテンの血がたぎる、そんな修羅場に立ったのを想像するだけも足が竦んでしまう。

私は丁重にその「タバサ」とやらのバックをペネロペに戻して、そそくさと地下道(註⑥)へと歩を急がせるだろう。仕方ない、そもそも私は奥ゆかしいことこの上ないれっきとした日本人なのだ。バックなんて持ってあげる、西洋人の真似事をするからいけないのだ。


 ぼくは、日本の後進性、つまり、社会が近代化されていないことと、個人の近代的自我が形成されていないことのあらわれであると見ます。
 西欧の個人主義を目指してはいたけれども、日本における個人主義は、実は西欧とはまるで違うものだった、ということです。(註⑦)



註①・・・ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』(三好郁郎・訳)
註②・・・もちろん、ペネロペ・クルスのこと。
註③・・・先日のアカデミー賞、『NINE』でノミネートされていたが二年連続の助演女優賞とはならなかった。ちなみに前年はウディ・アレン『それでも恋するバルセロナ』で見事受賞。
註④・・・ご存知、ハビエル・バルデムのこと。
註⑤・・・『ノーカントリー』でおかっぱ頭の殺人鬼シガーを演じたのは記憶に新しい。
註⑥・・・ここでは、バルセロナのサンアントニ駅構内でも、メキシコのグアナファト地下道のことでもなく、池袋ウィロードから北口へと続くあの道のこと。
註⑦・・・吉本隆明『超恋愛論』

ちっちゃい頃からチョキばかりを出していたように思う。ち・よ・こ・れ・い・と、でいっきに6歩進むことだけしか頭になかったのだろう。それは今でも変わらない。時にはグーを出して、ぐ・り・こ、と3歩地味にかせいだりして駆け引きしなければならないのに、それでもチョキばかり出していた。そのぐらい、ちよこれいと、の響きが持つ快感はまさに飛び跳ねるように強烈だったから。

 

コツコツと積み重ねることはあれからも出来ぬまま、それくらいならいくら負ける可能性が高かろうがイチかバチか見返りが大きい方をとる、その態度が常になってしまった。しかし競馬やパチンコといった所謂ギャンブルには一切興味がない。なぜなら私が生業としている「映画」はあまりにも不経済な大博打、どこまでもいってもどこを切ってもギャンブル性から逃れられない、まったく迷惑な代物であるからだ。なにも映画を制作するといった馬鹿げたギャンブルでなくとも、フツーに映画を観る行為こそギャンブルに他ならないわけで、千八百円という少なくない金銭と二時間という短くはない貴重な時間を賭けざるをえないギャンブルは、現在映画館から多くの人の足を遠ざけるのに十分だろうし、それはおろかぎっしりと陳列されたDVDを棚から一本選び出すTUTAYAでの日常行為だって列記としたギャンブルではないか。つまんなかったらほんと腹立つし。

 

今でもチョキばかり出している。なんてったってパーよりもグーよりも手の形がカッコイイ。んでピースにもなる。30も過ぎたというのにこんな調子だ。コツコツと人生設計を頭に描きながら伴侶を得、子孫を繋ぐまわりの友人たちは多くの堅実なグーを多用してゆっくりと、ぐ・り・こ、と歩んできているに違いない。頭の悪い私は「ちよこれいと」に拘り続け、いっきの捲くりでその友人たちを置き去りにして、遠く、どこまでも遠くに行ってやろうと諦めないでいる。勝ち目のないギャンブルかもしれない。そして多くの人がすでに気づいているのは、「ちよこれいと」も「ぱいなっぷる」も同じ6歩だという当たり前の事実。人生の法則とでもいうべき教訓的一致。どうりでうまくいかないわけか。人生はチョコレートのように甘くはないし、銀紙にも包まれていない。

「私にはビートルズについて何かを語る権利も資格も持ち合わせていない」なんて書き出しの文をまま目にしたりすることがあるのだが、追悼文とかそういった類のもので使用頻度の高いこの一文、こんな傲慢で己の文章にある一定の担保を捏造するような卑小な表現もまたとないわけで、

 

では何かを語ること自体にどんな権利を、資格を、有することなどできやしようか、だからといってそれは逆説として今や誰も彼もが好き勝手に公共の場で発言する機会を保有している現代の状況のことを手放しで賞賛しているわけではなく、とりあえずは語る、記述するということのアンヴィバレンツな不可能性のことの方を言いたいわけで、もちろん私がマイケル・ジャクソンについて、忌野清志郎について、大いに無責任に語ろうがそれは自由なはずで、ただ私には今回のテーマである「ビートルズ」の楽曲を年代順に聴き込んだ過去もビートルズについて書かれた著書を読み漁った事態も多数存在しているはずの資料に目を通した経験もなく、それはおろか去年発売されあれだけ評判となったリマスター版すら購入していないので、さぁ何を語ろうか、

 

グッ・モーニン・エブリワン、グッ・モーニン・ミスノグチ、といったおよそどこの中学校でも繰り返されたであろう英語の授業での、なぜかスカイブルーのオーバーオールをトレードマークとしていたそのノグチ先生が授業の最後で必ず聴かせるビートルズの、ラジカセから流れるメロディーによって齎された安堵とも高揚ともつかない思春期の気分について語ろうか、そんな貧しいノスタルジックなメモリーを弄してどうしようというのか、

 

結局こうやって何を語ってもいいはずのビートルズについて私には何も語ることがないことが明らかになった結果、いかに自由に文章を綴るということがおよそ恐ろしい苦行か証明できたのでよしとしよう、さらにさすがにそれだけで終わるわけにはいかないので、何を書いてもいいはずのこの場で、それならチャールズ皇太子について語りたい、あの憂いに満ちた顔面に宿る王家の業について論じたい、しかしそれを語るにはすでに字数が尽きた。

「クスリ」がテーマとならば話は早い。そんなもの、デニス・ホッパーを措いて語ることなど他には何もないからだ。メキシコから麻薬を密輸してあっさり大金を手にするところから始まる、監督出演作の『イージー・ライダー』で一躍時代の寵児となり、しかしそれから何年後かには自身をドラッグとアルコールで廃人寸前まで追いやり、これまたしかしそこでくたばることなく、デビッド・リンチ『ブルーベルベット』で復帰して、現在まで現役バリバリでアメリカを体現するかのような生き様を見せ続けてくれている。「明日がある、なんてとんだ茶番だぜ。俺には明後日がある」と言い放ったらしい(これはこれで名言なのかもしれない)、おしお被告とは比べものに、というか比べるのも失礼だ。『イージー・ライダー』と並び評されるアメリカン・ニューシネマの中の一本『俺たちに明日はない』、これとも無論関係あるまい。

そんなことより、ここで真に語りたいのは、デニス・ホッパーにまつわる個人的記憶の方で、それは当時私が人生初の監督作を撮ろうとしていた時に出会った男とのエピソードについてである。いちおうはオーディションとしてその場所に現れた男はいきなり、自分のことを「デニー」と呼んでくれ、と言って初対面の私に握手を求めてきた。デニス・ホッパーとロバート・デ・ニーロから取ったのだという。べらべらと喋るその男は訊いてもいないのに、俺のこの頭髪がちりちりなのは以前何度か手を出したコーク(註・コカイン)の副作用であるとか、いやどうみても生粋の天然パーマなのだが、いまだにケイタイのすべての会話は警察によって盗聴されているのだとか、さっきもイラン人の売人から「カッテクダサイヨー」と連絡がきて困っただとか、本当にでたらめ放題な嘘を吐く最低の野郎だった。

もちろん、その男を私が映画で使ったのは云うまでもあるまい。そして、結局その後も続けて2本の映画に出てもらった。それからその男の消息を私は知らない。消えるようにして突然目の前からいなくなってしまったのだ。ただ、私は今でもその男がカウボーイ・ハットを被って、モニュメント・バレーあたりか、もしくはお遍路さんか、いずれにせよ長い旅を続けているのだと信じている。「ファック!」だとかなんとか喚き散らしながら。


せっかくだから草刈正雄について語ろうと思う。
なんつったって今回のテーマが「オシャレ」だからだ。

草刈正雄は1952年生まれの57歳、福岡県出身の元祖イケメン俳優である。
筆者と同年代の読者には、理解あるイグアナの父として、
その13年後であるごく最近では、イグアナの娘よりはるかに若い
あの掘北真希を嫁に迎える大富豪、『アタシんちの男子』の大蔵新造役として、
記憶に残っていることだろう。
ここでの、両者ともに共通する荒唐無稽な役柄設定にも、
まったくの違和感を視聴者に抱かせない存在、
そんなことが許されてしまうのは、草刈正雄の常軌を逸した
イケメンぶりがあってからこそである。
活況を巻き起こしている現在のイケメンブーム、
それにまつわるあらゆる事象はすべて、草刈正雄に始まり、その後ろに道ができた。
これは疑いようのない事実だ。

そして、そのあまりに理不尽でいかがわしいイケメンぶりが
見事にスクリーンで結実したのが、2007年公開の『0093 女王陛下の草刈正雄』である。
ここでの草刈正雄は、実の娘である草刈麻有(これがまた父親ゆずりでえらくかわいい!)
のデビュー作としても相応しい作品にするんだ、といった決意で挑み、
その孤軍奮闘の熱演ぶりでもって観る者の目頭さえも熱くする。
しかもそれでいて、お得意のあの涼しい顔は微塵もくずさないのだから、
やはり「実にオシャレだ」としか言いようがない。

だから本当に残念でならないのは、カメハメハ大王の末裔である父と、
エリザベス女王の双子の妹を母に持つ、アメリカ空軍パイロット、
ジョナサン・エリザベス・クヒオ(本名、竹内武男)という
嘘にまみれた実在の人物を主人公とした、現在公開中『クヒオ大佐』は、
笑っていても常に目には狂気を孕ませている堺雅人でも決して悪いとは言わないが、
やはり実の父がアメリカ軍人で、あの一点の汚れのないつぶらな瞳で、
だからこそ次々と人を本心から騙せる草刈正雄こそを
「クヒオ大佐」にキャスティングするべきだったのではなかろうか。

真のイケメンとは、真実を虚構に、でたらめをまことに、無意識のうちに変えうる、
外見、雰囲気、立ち振る舞い、声のトーン、
すべてが揃ってこそ与えられる称号でなくてはならない。
ご存知の通り、イケメンにはほとんどの女性が自らすすんで騙されるのだ。
多くの男がキャバ嬢に大金費やしてまで、騙して欲しいと願うのも同じこと。
そう、恋に関わる一切合切は、例外なく「騙し合い」なのである。
あっ、なんだかつい、オシャレなことを言ってしまった。


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