東京プロトコロ 第6回 テーマ「サマンサタバサ」

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 わたしが服属の状態を進んで引き受けるのは、それが自分の懇願をはっきり(・・・・)と(・)示す(・・)ため(・・)の方法であるからだ。恋愛の領域にあっては、無益なおこないは「弱さ」ではない。「おろかしさ」でもない。それは強力な記号なのだ。無益であればあるほど、それが意味するところは多く、力として発顕するところも多いのである。(註①)


 おそらく大多数の人は嫌悪する行為ではあろうが、私はわりかし女の子のカバンを持ってあげることは好きな方だ。別にそれが小さかろうが、自分の服装との違和感を醸し出そうが平気である。

もし、ペネロペ(註②)がその「タバサ」とやらのおしゃれバックを差し出そうものならサラりと受け取り、春の陽気が香りはじめたトウキョーシティーを並んで颯爽と歩くだろう。そして先日の件(註③)で、少し落ち込み気味のペネロペに、「まぁまたそのうちチャンスはやってくるよ」と優しい言葉の一つか二つかは掛けたりもするだろう。ペネロペの表情が幾分かやわらかくなったところで、不意に私の脳裏に嫌な画面が横切る。突如として映画の記憶装置が作動してしまったわけだが、それは現在ペネロペが交際しているという彼氏(註④)の存在のことで、あんなのに追っかけられたらと思うと、たとえそれが映画で演じた役柄(註⑤)だとわかってはいても、やはり気味が悪い。見るからに圧迫感のある濃さが伝わってくるスペイン人二人に挟まれての三角関係なんて、ましてや情熱的なラテンの血がたぎる、そんな修羅場に立ったのを想像するだけも足が竦んでしまう。

私は丁重にその「タバサ」とやらのバックをペネロペに戻して、そそくさと地下道(註⑥)へと歩を急がせるだろう。仕方ない、そもそも私は奥ゆかしいことこの上ないれっきとした日本人なのだ。バックなんて持ってあげる、西洋人の真似事をするからいけないのだ。


 ぼくは、日本の後進性、つまり、社会が近代化されていないことと、個人の近代的自我が形成されていないことのあらわれであると見ます。
 西欧の個人主義を目指してはいたけれども、日本における個人主義は、実は西欧とはまるで違うものだった、ということです。(註⑦)



註①・・・ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』(三好郁郎・訳)
註②・・・もちろん、ペネロペ・クルスのこと。
註③・・・先日のアカデミー賞、『NINE』でノミネートされていたが二年連続の助演女優賞とはならなかった。ちなみに前年はウディ・アレン『それでも恋するバルセロナ』で見事受賞。
註④・・・ご存知、ハビエル・バルデムのこと。
註⑤・・・『ノーカントリー』でおかっぱ頭の殺人鬼シガーを演じたのは記憶に新しい。
註⑥・・・ここでは、バルセロナのサンアントニ駅構内でも、メキシコのグアナファト地下道のことでもなく、池袋ウィロードから北口へと続くあの道のこと。
註⑦・・・吉本隆明『超恋愛論』

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