「私にはビートルズについて何かを語る権利も資格も持ち合わせていない」なんて書き出しの文をまま目にしたりすることがあるのだが、追悼文とかそういった類のもので使用頻度の高いこの一文、こんな傲慢で己の文章にある一定の担保を捏造するような卑小な表現もまたとないわけで、
では何かを語ること自体にどんな権利を、資格を、有することなどできやしようか、だからといってそれは逆説として今や誰も彼もが好き勝手に公共の場で発言する機会を保有している現代の状況のことを手放しで賞賛しているわけではなく、とりあえずは語る、記述するということのアンヴィバレンツな不可能性のことの方を言いたいわけで、もちろん私がマイケル・ジャクソンについて、忌野清志郎について、大いに無責任に語ろうがそれは自由なはずで、ただ私には今回のテーマである「ビートルズ」の楽曲を年代順に聴き込んだ過去もビートルズについて書かれた著書を読み漁った事態も多数存在しているはずの資料に目を通した経験もなく、それはおろか去年発売されあれだけ評判となったリマスター版すら購入していないので、さぁ何を語ろうか、
グッ・モーニン・エブリワン、グッ・モーニン・ミスノグチ、といったおよそどこの中学校でも繰り返されたであろう英語の授業での、なぜかスカイブルーのオーバーオールをトレードマークとしていたそのノグチ先生が授業の最後で必ず聴かせるビートルズの、ラジカセから流れるメロディーによって齎された安堵とも高揚ともつかない思春期の気分について語ろうか、そんな貧しいノスタルジックなメモリーを弄してどうしようというのか、
結局こうやって何を語ってもいいはずのビートルズについて私には何も語ることがないことが明らかになった結果、いかに自由に文章を綴るということがおよそ恐ろしい苦行か証明できたのでよしとしよう、さらにさすがにそれだけで終わるわけにはいかないので、何を書いてもいいはずのこの場で、それならチャールズ皇太子について語りたい、あの憂いに満ちた顔面に宿る王家の業について論じたい、しかしそれを語るにはすでに字数が尽きた。













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